自分よりもっと大きな意思に任せることの大事さ
ヨガの練習をするといつも気づきがある。
写真はブルガリアでヨガリトリートした時のもの。2016年8月。
私にとってヨガの練習って自分との対話。
自分の体を知るための行為。
朝の練習は目を覚ますため、な気がする。
に対して夜に練習すると何か「ひらめき」のような「気づき」のようなものがある。
今回のはすごく大きかった。最後のシャヴァーサナ。
寝転がって気づいたのが
あ、心臓って私の意思で動かしてるんじゃない!
ってこと。
あれもしなきゃ、これもしなきゃと焦ったり、
私が何かしなきゃ、と必死になったり、
何かしないとどうにかなる、と思ったり、
人はすごく一所懸命がんばる。
それもとても大事なんだけど、
私たちは大きな意思の前には無力だ
と思った。
自分の力でなんでもできるって思ってるけど、私たちは心臓を自分の意思で動かしたり止めたりすることすらできない。自分の体、自分の心臓なのに。
だから自分で何かしようとするのは、どれほど傲慢なことかと思う。
心臓が何も私が意識することなく動いて私を生かしてくれているように、きっと大きな意思も上で勝手に何かをしてくれている。
それは私の目には見えないかもしれないけど、確実に動いているのである。だから、自分ができることをしたら、あとはそういう大きいものに任せる。
私たちができることってどれほどあるのだろう。
雨を降らせることも川の水を止めることもできない。
作物だって、育てることはできても、作物を作ることはできない。
自分がやってるんじゃなくて、全て大きな力なんやなぁ、と感じた今日のヨガの自主練。