タロット戦車のカード:肉体は魂の乗り物
マルセイユタロットとルネサンス美術の関係
マルセイユタロットカードとルネサンス美術の関係についての講座を開催している。
マルセイユタロットは哲学者マルシリオ・フィチーノと画家ボッティチェリの共同作業じゃないかという説がある。
そう考えるとルネサンス美術と共通しているのはうなずける。
ルネサンス美術もマルセイユタロットも新プラトン主義に基づいている
ルネサンス美術は新プラトン主義哲学に基づいていると言われている。
15世紀 フィレンツェではプラトンの著作権が東ローマ帝国からもたらされ当時のイタリアに衝撃を与えた。プラトン・アカデミーが設立されこの異国の哲学が研究された。その塾長がマルシリオ・フィチーノだった。
もしフィチーノがマルセイユ・タロットをデザインしたのであれば、明らかに新プラトン主義の意匠が入っている。
それを裏付けるような研究がこちらだ。
肉体は魂の乗り物
新プラトン主義では肉体は魂の乗り物である、と考える。
それを表したのが15世紀半ばのこちらの彫刻「若き新プラトン主義者の胸像」
胸のメダイを拡大すると戦車と御者が描かれている。
プラトン「パイドロス」に登場する「馬車の比喩」
これはプラトン「パイドロス」に書かれている「馬車の比喩」に由来する。
御者(理性)で2匹の馬(気概と欲望)を制御する、という考えだ。
そしてマルセイユタロットでそれを表したのが「戦車」のカードと言われている。
ヨガでの馬車の比喩
似た考え方がヨガにもある。
ヨガでは馬車を以下のように考える。
1) 馬車:肉体
2) 乗客:魂、ブラフマン(真我)
3) 御者:理性、アートマン(小我)
4) 手綱:意思、思考
5) 馬 :感覚
ここでは御者と乗客も分かれているのが興味深い。
タクシーに例えるとわかりやすい。運転手は乗客が行きたい場所まで運転する。乗客がどこに行きたいか明確に伝えないと行き先が曖昧になってしまう。
肉体は借り物
昨日のヨガのレッスンで興味深い話があった。
「調子悪いな」と思う日に無理にしんどいポーズを取ろうとすると、肉体と意識に乖離が生まれる。肉体は「大事にされていない」と感じて大事にしてもらうように不調を起こす、というお話だった。
無理をするのは簡単であり、惰性。逆に休むことの方が決断が必要。
先生のこのメッセージが印象的だった。
本来私たちの体はこの世の借り物だ。
意識だけでは物事を実現できない。肉体があってこそ実現できる。そのために肉体をもらってこの世に生まれてきた。
たまたまこの肉体を預かっているだけに過ぎない。
「自分さえ我慢すれば…」と思って無理をしてしまいがち。
だけど、もし自分の肉体が「預かり物」だとしたら、無理をするのは職権濫用だな、と気がついた。
最近、他人に雑に扱われることを自分が許してしまっているんじゃないか、と思うことがあった。それを相手に伝えることは大きな勇気がいることだった。でも他人が自分の体を雑に扱うことを許すのは自分が自分の体を雑に扱っているのと変わりない。自分の体が体が預かり物だとすると、預かり物を他者から守ることも預かった者の責任な気がする。
自分の体を大事にする。簡単なことなようで難しい。難しい時には「もしこの肉体が他人から預かっている物だったらどう扱うか」と考えてその答えを参考にしてみるといいかもしれない。