「拾われた男」見始めましたー不運か幸運かはその時わからない
NHKで「拾われた男」始まりましたね。
ドラマSPに登場していた松尾諭さんの人生だそうです。
主人公は役者になりたいという熱意だけで上京。
劇団のオーディションは不合格でしたがモデル事務所に所属することになります。
まだ1回目なのでこれからどんな展開か楽しみですが、第1話のお話しの中で人生の成功に関わるな、と思ったお話が要所要所に出てきました。
残念な出来事が成功につながる?
普通に考えるとオーディションに落ちるのは残念な出来事です。
しかし劇団のオーディションに落ちたことにより、主人公はたまたま知り合った社長に誘われてモデル事務所に入ります。
松尾さんは今でもその事務所に所属。テレビや映画にご活躍です。
もし劇団に合格していたらまた別の人生を歩まれていたかもしれません。
一見残念に見える「不合格」という現象も、将来振り返ってみればそれがあったからこそ今の成功に繋がっているかもしれません。
残念な出来事が起きても、もしかすると将来の成功に繋がっているのかもしれません。
偶然は偶然でない・・・なる運命であれば必ずなれる
もう一つ、人間はなるべきものには必ずなる、ということです。
主人公がモデル事務所の社長と知り合ったのは、自動販売機の下に落ちていた航空券を拾ったから。航空券の持ち主がモデル事務所の社長で、オーディションに落ちた主人公は社長を頼ります。
一見偶然に見えますが、主人公が役者になることが運命づけられていたから、こんな出会いが生まれたのではないかと思います。
劇団オーディション不合格だったとしても役者になるべき人だったからこのような出会いが用意されていた。
人間は運命通りに生きる。思い通りに進んでいない、と思ってもなるべきものには形を変えたとしても必ずなるようにできているのです。
自分の運命を信じ続けることが大事だと思います。
SPドラマも映画もめっちゃ好きです。
メインからサブまでどの役者さんもものすごく上手くて思わず手に汗握ってしまいます。
「拾われた男」今後の展開も楽しみです。
最も絶望してる時こそ神様が最もそばにいるのかもしれない
今日のGoogleのトップは荻野吟子でしたね。
日本初の女性医師。こういう先人たちのお陰で女性が社会で働くことができ、女性に診療してもらえると思うとありがたいです。
医師になったのは、19歳の時に夫に病気を移され不妊になったため離縁され、男性による治療で辛い思いをしたからだそう。こんな状況だったら恨んで仕返ししたり絶望して死を選んでもおかしくないのに、逆に先例のない女性医師を目指したのがすごい。しかし絶望的な出来事があったからこそ、吟子さんの才能が発揮できた。神様なんていないんじゃないかと思うような絶望的な時こそ、神様がもっとも近くにいるのかもしれない。絶望的になった時は自戒の念を込めて思い出そうと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E9%87%8E%E5%90%9F%E5%AD%90
「今」を生きる
将来のありもしないことのために悩まない。
将来のありもしないことのために備えない。
タロット戦車のカード:肉体は魂の乗り物
マルセイユタロットとルネサンス美術の関係
マルセイユタロットカードとルネサンス美術の関係についての講座を開催している。
マルセイユタロットは哲学者マルシリオ・フィチーノと画家ボッティチェリの共同作業じゃないかという説がある。
そう考えるとルネサンス美術と共通しているのはうなずける。
ルネサンス美術もマルセイユタロットも新プラトン主義に基づいている
ルネサンス美術は新プラトン主義哲学に基づいていると言われている。
15世紀 フィレンツェではプラトンの著作権が東ローマ帝国からもたらされ当時のイタリアに衝撃を与えた。プラトン・アカデミーが設立されこの異国の哲学が研究された。その塾長がマルシリオ・フィチーノだった。
もしフィチーノがマルセイユ・タロットをデザインしたのであれば、明らかに新プラトン主義の意匠が入っている。
それを裏付けるような研究がこちらだ。
肉体は魂の乗り物
新プラトン主義では肉体は魂の乗り物である、と考える。
それを表したのが15世紀半ばのこちらの彫刻「若き新プラトン主義者の胸像」
胸のメダイを拡大すると戦車と御者が描かれている。
プラトン「パイドロス」に登場する「馬車の比喩」
これはプラトン「パイドロス」に書かれている「馬車の比喩」に由来する。
御者(理性)で2匹の馬(気概と欲望)を制御する、という考えだ。
そしてマルセイユタロットでそれを表したのが「戦車」のカードと言われている。
ヨガでの馬車の比喩
似た考え方がヨガにもある。
ヨガでは馬車を以下のように考える。
1) 馬車:肉体
2) 乗客:魂、ブラフマン(真我)
3) 御者:理性、アートマン(小我)
4) 手綱:意思、思考
5) 馬 :感覚
ここでは御者と乗客も分かれているのが興味深い。
タクシーに例えるとわかりやすい。運転手は乗客が行きたい場所まで運転する。乗客がどこに行きたいか明確に伝えないと行き先が曖昧になってしまう。
肉体は借り物
昨日のヨガのレッスンで興味深い話があった。
「調子悪いな」と思う日に無理にしんどいポーズを取ろうとすると、肉体と意識に乖離が生まれる。肉体は「大事にされていない」と感じて大事にしてもらうように不調を起こす、というお話だった。
無理をするのは簡単であり、惰性。逆に休むことの方が決断が必要。
先生のこのメッセージが印象的だった。
本来私たちの体はこの世の借り物だ。
意識だけでは物事を実現できない。肉体があってこそ実現できる。そのために肉体をもらってこの世に生まれてきた。
たまたまこの肉体を預かっているだけに過ぎない。
「自分さえ我慢すれば…」と思って無理をしてしまいがち。
だけど、もし自分の肉体が「預かり物」だとしたら、無理をするのは職権濫用だな、と気がついた。
最近、他人に雑に扱われることを自分が許してしまっているんじゃないか、と思うことがあった。それを相手に伝えることは大きな勇気がいることだった。でも他人が自分の体を雑に扱うことを許すのは自分が自分の体を雑に扱っているのと変わりない。自分の体が体が預かり物だとすると、預かり物を他者から守ることも預かった者の責任な気がする。
自分の体を大事にする。簡単なことなようで難しい。難しい時には「もしこの肉体が他人から預かっている物だったらどう扱うか」と考えてその答えを参考にしてみるといいかもしれない。
シャヴァーサナ:力を抜くことの難しさと生まれ変わること
週2回ヨガを続けて約3ヶ月。
毎回ヨガの練習をすると何かの気づきがある。
今日はその世界では有名な先生のzoomレッスンに参加。
普段と違う先生ということとzoomということで少し勝手が違う。
一番戸惑ったのが最後に行うシャヴァーサナ。別名「死体のポーズ」。
普段より長い。いつまで経っても「起き上がって」の合図がない。
もう終わったんだろうか…zoomなので終わったのか電波が途絶えたのかわからない。
結局、普段より少し長めのシャヴァーサナだったことがわかった。
実はこのシャヴァーサナが一番難しい。
今日も結局「死体」になりきれず、途中でzoomの接続確認しに起きたりなんかしてしまう。
一番ラクなはずのポーズなのに、本当は一番難しいポーズ。
このポーズを極めるには力を抜き切ることだ。
力を抜くこと、マットに体を預け切ることがどれほど難しいか。
ちなみに「死体のポーズ」にはちゃんと意味がある。
ヨガはリラックスするものと思われがちだが、ヨガにもいろいろ種類があって、運動量の多いヨガもある。
動く瞑想とも言われ、とりあえず動いている時は必死。余計なことは考えられない。
それが終わって最後に「死体」になるのだ。
そしてそこからまた起き上がって復活する。
実はこれって人生と一緒。
いっぱい動いてそれが終わって死を迎える。
そして十分に死にきったところでもう一度生まれ変わるのだ。
思う存分生きないと死に切れない。いわゆる往生できないってやつだ。
そして生まれ変わるには一度死なないといけない。
新しく生まれ変わるには一度死を迎える。そしてその間は自分が何もしないで預け切る。
肉体の死だけでなく「今」の自分が死んで「新しい」自分に生まれ変わる…そんな意味も含まれている。
シャヴァーサナは深ければ深いほど起きた時の復活度が高い。
身を委ね切れた人ほど生まれ変わりはきっと大きいのだと思う。
The light in me sees the light in you - Namaste
伏見稲荷大社に行ってきた:七五三の想い出
4月、関西にまん延防止等重点措置が適用される直前に京都に帰省した。
滞在3日目最終日、枚方に住む父に会いに行く前に伏見稲荷大社に参拝した。何年ぶりだろう…
最近はインスタ映えすると赤い鳥居が人気で国内外からたくさんの観光客が訪れるらしい(コロナ前)。この日も結構な人出だった。
言わずと知れた商売繁盛のお稲荷さまの総本山。初詣客数トップ3首都圏を占める中、毎年必ず堂々5位に入る人気ぶり。
そんな人気の伏見稲荷大社だが、もともとは地元の人たちに「お稲荷さん」と言って親しまれる存在。父の実家が伏見にある私にとってもそれは同じ。
7歳の七五三はここ、お稲荷さんでお祝いしてもらった。両親に加え、父方の祖父母も来てくれたと思う。母のお下がりの紫の着物を着たのを覚えている。中学受験前には願いが叶う輪っかに石を投げて通ったっけ。
お稲荷さんは本来、本殿から稲荷山を登る修行の山。途中の展望台までで終わる人が多いが、奥の院まで回って帰ってくると大体2時間前後。父とよく登った。父方の祖母ともお参りによく来た。父方の実家を思いださせてくれる想い出深い神社である。
京都に住んでいる時から足が遠のいてしまっていたが、今回父に会う前にふとお参りしようと思った。参道には伝統のスズメやモズの焼き鳥を売る店も。小さい頃食べられなくて泣いたのを思い出しながら歩いた。
例年ならきっともっと人出が多いのだろう。社務所で見つけたお守りを父に買ってお稲荷さんを後にした。
疎遠になってしまった父と父方の実家。お稲荷さんにお参りして少しだけ思い出せた気がする。
旅っていうのは帰るところがあって初めて旅になる
旅が好きって言う人多いと思う。
お休みが取れたら旅行に行く、とか臨時収入があったら旅行に行く、など。
きっと人はそこに非日常やロマンを求めるのだと思う。
だけど、旅がロマンチックなのは帰るところがあるから。
帰るところを持たずただ旅し続けるのは放浪だ。
帰るところなく彷徨い歩き続けるのはもはやロマンではなく虚しさしかない。
日々変わりゆく景色、特定の場所を持たず、その時々の人間関係だけ。
何物にもとらわれない自由さはあるけど、それは常に孤独と隣り合わせだと思う。
帰るところがあるからこそ旅は旅たりえる。
ロンドンナショナルギャラリー至宝の1つだけど、もともとフィレンツェで制作された。
中世〜ルネサンスのフィレンツェは商人の街。子供の頃に外国の支店に修行にだされることも多かった。昔の旅は今と違って危ない。子供の無事を祈って天使が守ってくれるように、この画題が人気だった。
大天使ラファエルは特定の人ではなく色んな人に姿形を変えてきっと守ってくれている。
出会う人それぞれに大天使を見出せられれば彷徨うだけの旅も少しは虚しく無くなるのかもしれない。