全ては恵まれているけれど…明日は明日の風が吹く
イタリアから帰国して今日でちょうど1ヶ月。
就職活動も驚くほど順調に進み、今日から出社した。
前職と全く同じ、というわけでではないけれど、結局、一度足を洗ったつもりだった業界に戻った。
3年のブランクがあるにも関わらず、昔取った杵柄というのだろうか、しっかり勘は失っていなかった。嬉しいような、決死の思いで足を洗ったつもりだったのに覚えていることが悲しいような、なんとも言えないフクザツな気持ち。
仕事があって、よいお給料をいただいて、仲間にも感謝され、歓迎され、つい1ヶ月前までは想像もつかなかった状況。そして、自分が望んだ世界でもある。
ガイドの仕事なんかよりよっぽどやりがいを感じられる。
しかし、私の心は死んだ状態なのだ。
生きる希望も、夢も、目標も、何も持てない。
朝起きて、会社に行って、それなりに仕事して、夜なんとなく定食屋でご飯食べて、一体私は何のために生きてるのか?生きてる意味がやっぱり見当たらない。
自立した女性も、女友達との豪華なディナーも、私にとっては虚しい以外の何物でもない。
結局シェアする人がいなければ、私にとって世界は色褪せてしか見えない。
贅沢過ぎる悩みではあるけれど、手に入れても手に入れても、本当に欲しいものを手に入れない限り、この空白は埋まらない。
眠れるアリアドネ。尽くした夫に放置されたと思いきや、ワインの神バッカスに魅入られ妻になった。人生、最悪と思っても一寸先には何があるかわからない。
今は絶望しても明日はまた違う日。
“After all, tomorrow is another day.” From “Gone with the Wind” Scarlett O’Hara
「明日は明日の風が吹く」スカーレット・オハラ最後のセリフ「風とともに去りぬ」より
自分よりもっと大きな意思に任せることの大事さ
ヨガの練習をするといつも気づきがある。
写真はブルガリアでヨガリトリートした時のもの。2016年8月。
私にとってヨガの練習って自分との対話。
自分の体を知るための行為。
朝の練習は目を覚ますため、な気がする。
に対して夜に練習すると何か「ひらめき」のような「気づき」のようなものがある。
今回のはすごく大きかった。最後のシャヴァーサナ。
寝転がって気づいたのが
あ、心臓って私の意思で動かしてるんじゃない!
ってこと。
あれもしなきゃ、これもしなきゃと焦ったり、
私が何かしなきゃ、と必死になったり、
何かしないとどうにかなる、と思ったり、
人はすごく一所懸命がんばる。
それもとても大事なんだけど、
私たちは大きな意思の前には無力だ
と思った。
自分の力でなんでもできるって思ってるけど、私たちは心臓を自分の意思で動かしたり止めたりすることすらできない。自分の体、自分の心臓なのに。
だから自分で何かしようとするのは、どれほど傲慢なことかと思う。
心臓が何も私が意識することなく動いて私を生かしてくれているように、きっと大きな意思も上で勝手に何かをしてくれている。
それは私の目には見えないかもしれないけど、確実に動いているのである。だから、自分ができることをしたら、あとはそういう大きいものに任せる。
私たちができることってどれほどあるのだろう。
雨を降らせることも川の水を止めることもできない。
作物だって、育てることはできても、作物を作ることはできない。
自分がやってるんじゃなくて、全て大きな力なんやなぁ、と感じた今日のヨガの自主練。
価値の話、続き。人間の価値って何で決まるのか?
昨日こんな記事を書いた。
短く言うと
- 人は自分の本来の価値というよりどれだけ価値があると思うかに支払う。
- 自分の価値を見積もってそれを伝える。
というお話。特に私は2点目が大変苦手。
元はこちらの動画。
Know your worth, and then ask for it | Casey Brown
タイトルもズバリ
「あなたの価値を知ってそれを請求しなさい」
というもの。
出る杭は打たれるじゃないけど、こと自己主張したり、自分ができることを主張すると妬まれる。
そして親も含め、周りは自分の価値をダウングレードすることばかり言わないか?
価値を外の要素で判断してないか?
身近な人ですらそうだ。せめて自分の身内は外の価値ではなくその人自身の価値を見てもらいたいと思う。
あなたの価値はあなたの外の要素ではない
30歳になったときやっと大人になった気がしてすごく嬉しかった。
しかし母親は「姥桜」と言って嘆き悲しんだ。(注:21世紀の話です)
お見合いを必死にセッティングし、私が断ろうとすると
「あんたみたいに三十路を過ぎて高学歴で外国育ちで片親の人でもええって相手は言ってくれてはるのに、何があかんの!」
とえらい剣幕で怒られた。
彼女にとって人間(女性)の価値は
- 年齢
- 性別
- 学歴
などで決まったのである。いわゆる社会が決める価値、であり「加藤まり子」という個人に対しての価値ではない。
それが、自分の子供に対してでも、なのである。
なので、私は一所懸命その「価値」に応えるように自分をあわせていった。
当時の私。
一所懸命「年相応」にしようとしていた。年相応=姥桜、である。
9年後(2017年)
一概に比較ができるものじゃないけれども
「姥桜」
の呪縛から解放されたらこんな感じになった。
人間の価値は
- 年齢
- 性別
- 外見
- 年収
私は私になること以外何かになる必要はないのだ。「デミアン」ヘルマン・ヘッセ
- 作者: ヘッセ,高橋健二
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自分の価値をどれだけ伝えられるか TED
Know your worth, and then ask for it | Casey Brown
"People don't pay you for what you worth, but pay you for what they think you worth"
時たま見るがTEDは面白いスピーチが多い。
Casey Brownはプライシング・コンサルタント。商品の価格を決める為のコンサルだ。しかしある日彼女はあることに気がつく。
自分自身の適切な価格設定
である。
そして自分の価格が低いことに気づく。
しかし単価をあげて他の人に払ってもらえなくなったらどうしよう・・・
プロの彼女でもそんな不安が出たらしい。
しかし実際に単価を上げたが皆払ってくれた。しかも彼女だけでなく彼女のクライアントたちにも同じことが起きている。
単価はだれが決めるのか?
彼女のスピーチで大事だったこと。それは
「人はあなたの実際の価値ではなく、どれだけ価値があると思うかに対して支払う」
というもの。
そしてどれだけ価値があると思わせるかは
- 自分の価値を設定し
- それを相手に伝える
ことによって可能だ、というのだ。
謙譲は美徳である。しかし卑屈になるのは謙譲ではなく一種傲慢であると思うのだ。
自分の価値を、他者の価値を評価するのと同じ目線で評価する。
そしてそれを、他者の価値を伝えるのと同じように伝える。
それが本当に他者と自分を同等に扱う、ということではないだろうか?